創業者ウィルヘルミーナ・クーパーについて

ウィルヘルミーナ・クーパー(Wilhelmina Cooper)は1980年3月1日に亡くなるまでに255冊の雑誌の表紙を飾り、特にアメリカのヴォーグの表紙を28回飾った1960年代のトップモデルです。ウィルヘルミーナ・クーパーは1939年5月1日にオランダのクレムボーグで精肉業を営む父親と縫子の母の元にゲルトルート・ウィルヘルミーナ・ボーメンバーグとして生まれました。1945年5月8日のヨーロッパ戦勝記念日に配給を求めて歩いているときに、カナダ兵が先勝祝いに撃ったピストルの弾が4歳の弟に当たり、弟を失ってしまいます。このときに悲しむ母親のために何かをしようと決心しました。

1954年に一家はアメリカのシカゴのノースサイドに引っ越しました。ウィルヘルミーナは父親が夕食の際に「ママ、ウィリー(ウィルヘルミーナの愛称)、アメリカ入国の応募が認可された。明日から家財を売って、二ヶ月後にはアメリカに引っ越す」と言った瞬間を生涯覚えていました。高校に入った際には英語は一言も話せなかったのですが、ウィルヘルミーナはシカゴではテレビとファッション雑誌を通して英語を覚えました。

1956年、ウィルヘルミーナは友人の付き添いでメイ・サビー・モデル・アンリミテッドというモデルスクールの面接に行きました。友人は身長が低すぎたのですが、ウィルヘルミーナはモデルと言う職業は自分に取ってチャンスだと思い、モデルスクールに通わせてくれるよう、父親に頼み込みました。父親はアルバイトをしてお金を返す事を条件に、モデルスクールの授業料を払ってくれました。翌年の1957年、彼女は名前をウィニー・ハートと変えて、ビューティーコンテストに出場し、地元シカゴの下着会社のモデル等を始めました。

1958年、高校卒業直前にモデルズ・ビューロというモデル事務所に入り、ジョバンナ・パパダキスが彼女のブッカーとなり、当時シカゴのトップフォトグラファーだったビクター・スクレブネスキに連絡を取り、ここからウィルヘルミーナはモデルとしてのキャリアを本格的にスタートさせます。1959年に彼女はミス西ドイツに選ばれ、これを期にモデルとしての名前をウィルヘルミーナに変えました。1960年代になり、ウィルヘルミーナはアイリーン・フォードのフォードモデルに所属し、世界を飛び回り仕事をするようになります。1964年にはジャーナルアメリカンによって、ニューヨークのトップモデルと報じられるようになります。また、この年、ウィルヘルミーナは将来の伴侶となるブルース・クーパーと出会い、翌年にはラスベガスで結婚式を挙げます。

1960年代を通して彼女はトップモデルとして世界中で活躍し、1967年に自身のモデル・エージェンシー、ウィルヘルミーナ・モデルズを設立し、共同経営者になります。ウィルヘルミーナ・モデルズはフォード・モデルズに次ぐ、世界第二位のモデル事務所となり、ウィルヘルミーナはVogue表紙に初となるアフリカ系モデルをブッキングしたり、アンジェリーナ・ジョリーの映画『ジーア/悲劇のスーパーモデル』の主人公となったジーアを発掘することになります。

現在でもウィルヘルミーナはアメリカではカルチャルアイコンとして影響力があり、『アグリー・ベティ』に登場するキャラクター、ウィルミナ・スレイターはウィルヘルミーナにインスピレーションを受けています。ウィルヘルミーナ・クーパーの設立したウィルヘルミーナ・モデルズは現在、モデル事務所としては世界で唯一株式公開を行っているモデルエージェンシーで、2017年に創立50周年を迎えます。

注:

Wilhelminaは日本語ではウィルヘルミーナ、ウィルミナ、ヴィルへルミナ、ヴィルへルミーナ、ウィルフェルミナ、ウェルヘルミーナ、ウィルフェルミーナなどと訳されますが、ウィルヘルミーナ・ジャパンではウィルヘルミーナの表記に統一しています。

参考文献:

Cooper, Wilhelmina. (1961). The New You: How to Maximize Your Total Appearance. New York: Simon and Schuster.

Gross, Michael. (1995). Model: The Ugly Business of Beautiful Women. New York: Perennial.

Wilhelmina Models Blog. http://www.xowilhelmina.com/5-facts-about-agency-founder-wilhelmina/